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please, call my name
■登場人物 陛下、夕鈴、青慎、李順、浩大、克右、瑛風、モブ
■カップリング 陛下x夕鈴

お久しぶりです。
先にしぶにあげたもの。
プチ用に書いてたけどPCを水浸しにして作業できなくなったので放置してたやつです。
まだ細かいエピソード足したかったですがこのまま触らなそうなのでこのあたりで置いておきます!

注意
※未来捏造(原作とは違います)
※青慎が官吏です

※捏造設定しかないので、なんか色々細かいことが気になる方や、今の原作のハッピーらぶらぶな空気を壊されたくない方は進まないことをおすすめします。
わりとモブが出っ張ります。

紙媒体用に書いたので改行が少なくてスマホなどのデバイスだと読みにくいかもしれません。
2万5千文字弱ですのでよろしくおねがいします^^

つづきからどうぞ。
ーーー


それは、その時をずっと待っていた。長い間燻っていたものから、ようやく炎があがったかのようだった。熱気が溢れていた。抑えこまれていたものがようやく自由を得て、思うがまま、そのうち熱を自分で制御ができなくなって、ただ暴れている。
黎翔はそれを予測していたわけではなかったが、起こった時には、やはり、という気持ちが大半だった。気付かないうちに煙がゆっくりと王宮を占めていき、ある日突然、黎翔の呼吸を止めようと襲い掛かってきたことが、ごく自然なことのように感じられた。
長らく王宮に勤めてきた官吏にとって、革新的な黎翔の政治は、王宮の旧例を、白陽国の歴史を軽視しているようにしか捉えられなかった。そのカリスマ的な手腕は独裁的だと囁かれたし、国王への権力の集中は、その一つの柱が折れた時の危険を考えれば、官吏達の中には本心から国のことを考えて、黎翔を王宮から追い出すことが得策だと考えたものも存在した。その後継者に晏流公が適任であったかはすぐに明らかになる話ではなくとも、少なくとも周囲の意見に耳を傾ける姿勢は、兄王よりは期待できるところであった。そんな王弟を、遠い蓉州から呼び戻して、王座に着かせようとする動きは今に始まったことではない。狼王の後宮に小さな花が咲いていたときから、その話は現れては消え、消えては再び、だれかの手によって蘇るのだった。黎翔の隣に出自不明の妃がいたとき、その妃を受け入れられぬ者たちの不満は育っていたものの、彼らが大きな動きに出ることはなかった。抑制力となる立場を取る人間が多かったことも一役買ったであろうし、即位後全く後宮に妃を娶る気配が一切見られなかった王が、それを一人の少女に許したという事実の衝撃が、彼らの足を踏みとどまらせたところもあった。彼女が消えた後に王宮には小さな戸惑いが残ったが、少し時が進めば忘れ去られ、国の繁栄のために、個人の安寧のために、すべきことは初めから決まっていたようなものだった。

 黎翔は、深い森の中にいた。もとより政治に身をおくよりは武人に近い黎翔にとっては、自分一人の身を守りながら王宮から離れることは、不可能なことではない。不意打ちの最初の一撃を除けば深い傷は多くない。足をやられなかったのは幸いであった。重たい外套を引き寄せて、白い息を吐いた。馬に乗ってただ前を目指していたため、今自分のいる場所がどこかは明白ではなかった。平原には可能な限り出ないように努めながら、三日ほど休憩もなしに走って、馬も自分も疲労していた。
王座になど、拘ったことはない。欲しければくれてやるとは思っていたけれど、このような形になるとは予測していなかった。碌な死に方をしないことは想像に容易い人生を送ってきたはずなのに、こうして一人追い立てられ逃げてきた今ではそれは理不尽だと感じている。黎翔は馬から降りて、ゆっくりと足を進めながら、弟の瑛風の顔を思い浮かべていた。細道に入ったため、ここから先は自分の足で歩くことになる。今回のことが瑛風を推す一行による仕業であることは分かっていたが、黎翔は瑛風本人の意思はどうなっているのかを心配していた。腹違いの弟で、自分が二十を超えて、しばらくの後にようやく、一瞬だけ姿を覗き見た程度で、黎翔の瑛風の関係性はずっと薄かった。王都に呼んでみれば、瑛風は黎翔の想像と反して、自分のことを不可解なほど慕っていた。瑛風のためにしたことなどなに1つないのに、意味もなく喜んで後を付いてくる姿は気味悪く感じたくらいだ。しかし黎翔に何も求めずに側にいてくれるその姿のおかげで、夕鈴がいなくなった後の空虚感が少し和らいだのも事実だった。母親を蓉州に置いてきたことについては、彼の可能性を伸ばすには適切な判断であったと考えたし、彼女の行動には細心の注意を払っていた。なにも永遠に引き裂こうと考えていたわけではない。実務の指導は瑛風に馴染みのある蓉州に比較的近い荷長官の下で行わせていようかと計画していたところであったし、ただ今は、もう少しだけ、準備をしてやろうと思っていた。黎翔は自分自身がまだ現役の、片付けなくてはならない問題を山ほど抱えた立場であると自覚しており、それを全て押し付けて、以前よりは幾分かマシなだけの場所に瑛風を放り投げるよりは、もうしばらく自分はこの立場に留まって、一人でも味方を作ってやりたいと考えていたのだが、それは黎翔の自己満足に過ぎなかったのかもしれない。以前よりも他人に裁量を任せることにして、僅かに空いた時間を瞑想に費やせるようになった黎翔が、昔に隣に座っていた妃の言葉を思い出して、少し家族に優しくしてみるかと気まぐれに思ったことだった。
望んでついた座ではない。けれど誰かに強制されたわけでもなかった。周囲の空気に押されてと言えばその通りであったかもしれないが、兄王が治めていたその状態を受け入れることができずに、行動しなければならないと足を踏み出したのは自らの意思だった。王でいたかったわけではない。けれど、自分の行ってきたことは、こうして一人追いやられて糾弾されるほどのことであっただろうか。
もう、十分だろうか。収集のつかない様子であったこの反乱を抑える力が瑛風にあるとは思えない。全員が、瑛風が次の王に相応しいと考えているわけではない。争いを嫌う瑛風は国が強固で平和な時代には喜ばれるが、軍部の人間はその性質を厭うだろう。状況を整理したら、すぐに瑛風の下へ赴いて、適切な処置をしなくてはならないのかもしれない。李順は自分に近すぎたから身動きが取れなくなっているだろう。柳と氾の補佐官も同じだが、両家当主の立場によるか。王宮に残してきた一人一人の顔を思い浮かべて、自分に近すぎる人間が少ないことに少し安堵する。しかし彼らへの心配でさえ、もう望まれていない。もうこのまま、どこか知らない土地で、果てていいだろうか。立ち上がらなくていいだろうか。王でない自分が、何をしているのか想像できない。何をして毎日を生きるのか、振りかかる課題に追われるばかりで、考えたことなどなかった。この血を厭うていたけれど、誰にも望まれていなかった自分に、国王という肩書が居場所を与えてくれたことだって、否定しようがない事実だった。それがなければ、自分は何者でもない。
「…っ」
疲労で視界が歪む。目の前で道が途切れていることに気が付かなかった。

窓から空を見上げた。山の麓にあるわりには温暖な気候のこの村を気に入っている。夕鈴は王宮から届いた青慎の手紙を読み終えて、お供にしていた茶を飲み干した。青慎は夕鈴が予想したよりもずっと早くに試験に合格した。学問所でも優秀であると言われてはいたが、二十代のうちに、汀家のように貴族でもなければ王宮に強く縁のある家でもない本当の庶民が、まさか合格するとは誰も考えていなかった。時間がかかることが分かっていて応援していたのだが、青慎がその年の最年少合格者であった上に、成績優秀者として王宮へ招集されたときには、夕鈴のほうが緊張して眠れなかったほどだ。青慎は晴れやかな顔で帰宅して、国王の声を初めて聞いたと喜んで報告してくれた。ずっと伏せていて顔は見られなかったけれど、不思議なことに初めてお会いした気がしなかったと、少し照れるように教えてくれた。合格はしたもののやはり出自の関係もあってか、青慎の配属は乾隴から遠くない町の役所ではあったけれど、数年するとその働きぶりが上に通ったのか、青慎の年齢にしては異例の昇進と共に、地方のとある州へと赴任されることとなった。その青慎と一緒に、父の岩圭を残して乾隴を出て、この村に住むようになってからもう何年経ったかすぐには計算ができなかった。青慎はその後順調に仕事を任され、ついに王宮に戻り政務室に配属されることとなったのだが、その時一緒に戻らないことを決めたのは夕鈴だった。青慎が中央へ出入りするようになったら、万が一にも夕鈴と青慎の関係に気がついて足を引っ張ってはならないと思っていたし、思い出が多すぎるあの町には戻りたくなかった。ここにも居場所ができた。新しい自分として生きたかった。いつまでも手の届かない人を想って、泣くようなことは二度と繰り返したくない。優しい人が多すぎる下町で、気を使われることも嫌。この村の人にとっては、今の夕鈴が当たり前なのだ。昔と比べて、時折寂しそうなほほえみを見せることはない。
「夕鈴先生!」
「はい」
 夕鈴は呼びかけに応じて立ち上がり、玄関へと向かった。
「どうしたの」
 外に立っていたのは、夕鈴が王宮で学んだ作法を教えている少女だ。小さな村だが村長は思慮深い初老の男性で、挨拶へ出向いた汀家の姉弟を気に入ってよくしてくれていた。一人になった夕鈴が働き口を探していると伝えたら、この末娘のお目付け役を拝命仕ったのであった。夕鈴に負けず劣らずお転婆な性格で、外に出ては綺麗な衣装を泥だらけにして帰ってくる。今日も桃色の美しい絹が台無しになっている。
「これ、山で取ってきたんです」
「あら、ありがとう」
少女の手にいっぱい赤い実が収まっている。まだ少し青いものもあるが、砂糖と一緒に煮れば気軽なおやつになるだろうか。先日砂糖をもらったばかりだ。
「甘く煮て明日おやつに持って行くわ」
「やった」
「それが目的だったんじゃないでしょうね」
夕鈴が目を細めて言うと、少女は違うもん、と慌てた様子で否定して、逃げるように走った。途中で何か思い出したかのように立ち止まる。
「先生、山に熊がいるみたい!気をつけて!」
「熊?」
「ぼろぼろの服が落ちてたから、多分そう。近づいちゃダメだよ」
 こういうところの村の人間に注意して回るところは、父親を見て育ったからだろうか。夕鈴は大きな声で了解の返事をする。もう春になる。雪が溶けて、冷たく、すき取った透明な水が流れてくるころだ。まだ日が落ちるまで少し時間があるから、贅沢をして上流のほうへ行ってみようか。
 実を煮る分と、自分で飲む分だけならたいした量はいらない。夕鈴は散歩がてらに森の中へ入っていった。先ほど忠告されば場所からは距離があるし、この辺りには熊の求める餌もないから大丈夫だろう。水の流れる音が聞こえてきて、夕鈴は耳を済ませた。
「うっ…」
「…?」
さらさらと軽快な音に混じって、人のうめき声のようなものが聞こえた気がした。まさか熊に襲われたのだろうか。この辺りには滅多に出ないはずなのに。何か倒れるような音がした。やはり人がいる。夕鈴は素早く周囲に目をやって、藪に黒い塊がいないことを確認すると、音のした方に走っていった。川が見える。そしてその水の中に体を半分残したまま倒れている人間がいた。男だ。重たそうな外套を身に纏っている。
「大丈夫ですか!」
 急いで近寄る。よく見ると傷だらけで、ずぶ濡れの体は血の気がなく土色だった。夕鈴の力では持ち上げることはできないが、なんとか足を曲げて水から引き上げる。濡れたままでは体温が奪われてますます衰弱してしまうだろう。村に戻って人を呼んだほうがいい。夕鈴にできることは何もない。水に濡れて重たく冷たい外套だけは脱がせてしまおう。夕鈴が手を伸ばした時、ちょうどその男がうっすらと目を明けた。
 赤い。
 夕鈴は男と目が合った瞬間、時間が止まってしまったかのように身動きが取れなかった。生気がなく濁っているが、強く人を拒絶するようなその瞳が夕鈴を捕らえて離さなかった。この人を知っている。考えるより先に夕鈴は黎翔に手を伸ばしていた。
「陛」
「ここは…どこだ」
夕鈴の発言を遮るように黎翔が呟いた。意識がはっきりしていないのかしばらくしてようやく夕鈴の姿を捉えたようだった。
「…君は?」
 それほど、変わっただろうか。夕鈴は呆然と黎翔を見つめる。月日の流れがもたらした変化をもってしても、夕鈴は黎翔の瞳を見ただけで、閉じ込めていたはずの気持ちが溢れることは止められなかったのに。動揺で不躾なほどに黎翔を見つめてしまう。黎翔は夕鈴の反応に戸惑っているようだった。黎翔の体がぶるりと震えた。そうだ。傷ついている場合ではないのだ。
「すぐに温かいものをお持ちしますからお待ちください」
 夕鈴はふらふらと立ち上がった。何も考えられずに村に戻って、夕飯の支度をしていた隣の家から湯をもらった。乾いた布と、薬箱、灯りを手にして暗くなり始めた森の中へ入っていく。夢かと疑いながらも近づくと、黎翔はそこにいた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 持ってきた湯を渡すときに手が触れた。氷のように冷たい。
「あの、外套は脱いでください。乾いた布を持ってきたので、これで拭いて。傷口は大丈夫ですか」
「傷?」
黎翔は言われたとおりに外套を脱いで、腕や足に目をやった。軽傷
とはいえない状態だ。
「気付かなかった」
「今は体が冷えて感覚が麻痺しているだけだと思います。薬を持ってきたから、これを塗ってください。他に必要なものはありませんか」
「いや…少し、眠い」
「あ、あの、歩けますか。家まで…」
「無理だ、眠くて…」
 黎翔は目を閉じて、そのまま反応しなくなってしまった。夕鈴の手元には、水を吸って重たくなった外套が残っている。
「どうしよう」
 人を呼んでいいのか分からない。なぜこんなところにいるのかも、傷だらけなのかも、夕鈴には全く分からなかった。先日届いた青慎からの手紙には、王宮でなにか変わったことが起こっているなんて全く書かれておらず、黎翔から承った仕事について、詳細は述べられていないが誇らしげに報告があったのに。このまま黎翔を外に置いていくわけには行かないが、夕鈴一人で運ぶなんて不可能だ。夕鈴は急いで村まで戻って、なにか重たいものを運ぶときに使える台はないかと探した。だれかそんなものを、どこかで使っていなかっただろうか。申し訳程度の車輪がついた小さな台を見つけて、それを借りて森の中へ戻った。
「陛下っ」
 先ほどと同じ場所に横たわっている黎翔に声をかける。返事がない。すっかり暗くなってしまった。黎翔は呼びかけには一切反応せず、呼吸の音でなんとか生きていることが確認できる程度だった。台の上に乗せるにも腕力が足りない。どうしようもできない。状況も分からない。助けられない。この人の味方でいようと決めたのに、夕鈴には何もできない。
「…泣くな」
「……」
黎翔はぼんやりと夕鈴を見つめている。夕鈴は目から落ちてきた涙を拭った。
「ごめんなさい。私一人だとお運びすることもできなくて…家に行けば寝台もお湯もあるのに」
「世話をかけて、すまない…歩ける」
黎翔は夕鈴の肩を支えにするように立ち上がって、用意した台により掛かって村まで戻った。夕鈴に連れられるがまま寝台に倒れこんで、そのまま三日目を覚まさずにいた。

 黎翔を一人家に残していくのは憚られたが、引きこもっていては怪しまれるため、夕鈴は普段通り仕事に出かけ、家事をして過ごした。いつ目を覚ましてもいいように、寝台の横には薬と水、台所にはすぐ食べられるものを用意してある。いつもは雑談をしてから家に帰るが、黎翔のことが気がかりで、用事が済むとすぐに家に戻った。時間はかかるだろうが、青慎へ手紙を出した。それとなく黎翔の様子を伺うような文言にはしてあるが、青慎が夕鈴に事実を教えてくれるとは考え難い。そんなときだった。国王が王宮から追われ、謀反を起こした官吏達によって、その命を絶たれ、自らの行いを償うこととなったのだと噂が流れてきた。
 嘘だ。黎翔は生きている。この田舎の村に辿り着く頃には、噂は元の形を留めないくらいに都合良く変更されていることがある。文章が欲しかった。何が起こったのか、これからどうすればいいのかを明らかにしてくれる、真実が分かる手紙が欲しい。
 夕鈴は家に戻るとすぐに寝台へと向かった。しかし黎翔の姿がない。
「陛下…?」
 いなくなってしまった。まだ外へ出られるような体ではないはずなのだ。こんなところに留まっているべき人間ではないと分かっていても、傷だらけの体で危険に飛び込んでいくようなことはしてほしくなかった。
 カタ、と台所の方から物音がして、夕鈴は焦る気持ちを抑えて台所へと向かった。慌ててはならない。今ある情報を整理して、最善のことをしなくては。黎翔の味方だと口にしたあの日から、夕鈴の気持ちは変わってない。なんでもいいから、できることをしなくては。
「…!」
 台所にいたのは黎翔だった。夕鈴が朝用意していった料理を口に運んでいる。
「…すまん。腹が減って勝手に食べた…その、食べていいと書いてあったのは、私宛だと思って…」
「その通りです。どうぞ安心して召し上がってください」
「ありがとう。親切にしてもらって申し訳ないのだが、今はどうも手持ちがないようだ。労働で返してもよろしいか」
「そんなのいいですよ。元気になってくれただけで」
 黎翔の顔色が土のようではなく、少し赤みが差しているというだけで夕鈴はここ数日の緊張が一気に解消された気がした。
「…君は、私が誰だか知っているか」
夕鈴は迷った。自分と黎翔の関係をここで話そうなどとは思っていないが、少なくとも黎翔の身分を知っていることは告げたほうがいいのだろうか。しかし黎翔の性格からいって、身分を知っている人間の元に留まることなどしないだろう。もう少しだけ側にいたい。夕鈴はそう思って嘘を吐いた。
「いえ、存じ上げないのですが、なにか失礼なことをしてしまったでしょうか」
「違う。そうか…私は、自分がどこへ戻ればいいのか分からないのだが…」
「それは…」
 王宮には、居場所がないということだろうか。ずっとここにいて良いと言ってしまいたい。いつ出て行ってもいい。利用するだけでいいから、助けになりたい。
黎翔はうーん、と首をかしげた。
「名前も分からんというのは困ったな」

 大まかに言うと、黎翔は記憶を失っているようだった。自分の名前、出自、過去に関する全ての記憶が曖昧になっているようだが、例えば今夕鈴がいる村の名前や、一般的な事項については通常通りの知識がある。自分の身分さえ分からないようで、元より服飾に関しては質素な趣味で動きやすさを重視していたため、武官か何かではないかと呼んだようだった。全くはずれではないが、夕鈴は困惑して曖昧に笑っただけだ。
 忘れられていたわけではない。今は記憶がないだけで、夕鈴のことが黎翔の心のどこにも残っていなかったとはまだ断言できない。その事実だけで夕鈴は泣きそうになった。黎翔の記憶のどこにも、夕鈴の顔と名前が残っていなかったと思ったときの衝撃は、夕鈴の心に深く深く傷を残した。答えを知りたくないから、記憶が戻らなければいいのにと考えてしまったくらいだ。黎翔は夕鈴が王宮にいたときのような小犬のような人懐っこい顔はしないが、普通に笑う。警戒して演技をするような理由も、今の黎翔にはないのだ。元々の個人の性格が出ているのかと思うと、演技だと繰り返してきた黎翔の言葉が嘘だということが、今またはっきりと夕鈴の心に刻まれる。この人の言葉は嘘ばかり。恨み事をつぶやきそうになって、夕鈴は首を横に振った。黎翔はまだ体調が回復しきていないようで、食事をした後はすぐに眠るという日は何日か続いた。
 ある日の朝、食事を済ませた黎翔は何度か体を伸ばしたり曲げたりして、一人頷くと、夕鈴の手を取って外に連れだした。
「私が倒れていた場所へ案内してくれ」
「へ?」
「もう良くなったから記憶を取り戻さんと」
「嘘!無理したらダメですよ」
「大丈夫だ。ゆっくり歩けば問題ない」
 何度言ったって聞くわけがない。知り合いではない分遠慮がないのか、黎翔は夕鈴の制止の声も聞かないで外で出てしまった。この村に黎翔の顔を知っている人間はいないはずだが、外に出るなんて不安で仕方がない。青慎の手紙はそろそろ王都に届いているだろうか。李順が無事でいるならば、李順にも手紙を出したい。
「…しかし、自分が何者か分からないというのは、非常に居心地が悪いものだな」
 森の中に足を進めながら、黎翔がぽつりと呟いた。夕鈴は心の中に溢れる罪悪感と戦うのに必死だ。
 知っています。私は貴方が誰なのか知っているし、どこにいるべき人なのか知っている。
 黎翔のためだと言い聞かせて、ここに縛り付けているのは自分の我儘だ。もう一人で歩けるようになった黎翔が、こんな小さな村にとどまっていなければいけない理由なんて一つもない。
「手がかりはないな」
「そうですね…随分流されていたようでしたし」
「服装も地域性がないからなあ…話し方はどうだ。訛りがないから王都の出身だと思うのだが…君も乾隴の人間だろう」
「え?」
「話していると、この村の人間ではないのはすぐ分かる。それに所作が美しいな。貴族の娘というわけではなかろうが、出自も悪くないのではないか。王都に知り合いがいたら、行方不明になっている人間がいないか聞いてみてくれないか」
「そ、そうですね。今度手紙を送ってみます」
「よろしく頼む」
 川の中に何かが残っているわけでもなく、収穫なしで帰宅することになりそうだった。
「日が暮れる前に戻りましょう」
「ああ」
 夕鈴は隣を歩く黎翔に視線を向けた。夕鈴が黎翔の顔を見たのはもう十年近く前であるので、黎翔はもう三十になっただろうか。記憶がなくなったせいかもしれないが、表情が少しやわらかくなっている気がした。
「どうしたんです?」
黎翔が突然自分の服を叩きだした。
「いや…なにか手がかりはないかと思ってな」
「やっぱり不安ですか」
「それは、まあな、自分が何者か分からないというのは、気味が悪い。せめて名前だけでも…」
 懐を探っていて、黎翔が何か発見したようだった。取り出したのは小さな紙切れだ。夕鈴は黎翔より先に中身を確認したい衝動に駆られたが、生憎川の中で揉まれたその紙には、読めるような文字はほとんど残っていなかった。
「この最後の文字は、翔、か?」
「え?」
「これが名前だと思うか?残りの文字が分かないな」
夕鈴は黎翔の持つ紙きれに目を通した。なにかの書類か、手紙のようで、最後の黎翔の書名の部分だけが残っているようだ。記憶のままの力強く美しい字の欠片が、そこにあった。ほとんど読めなくても忘れるわけがない。黒い墨が示すものは間違いなく黎翔の名前であった。
「れい…」
「れい?」
「あ、いえ、」
夕鈴は無意識に呟いた音を慌てて否定した。本人の前で口にしたことなど一度もない名前だ。黎翔にとって馴染みがありそうな名前を提案することにする。
「李じゃないですか」
「李か」
「李翔さんだと思いますよ」
「なるほど…聞き覚えがないわけではないな」
黎翔はじっくりとその文字を見つめた。
「下の方しか見えないから定かではないが、これは黎ではないか?そもそも私の名前なのかどうかも不明だな。姓が分からんから、一先ず李黎翔と名乗っておくか」
 それはまずいのでは、と夕鈴が意見するより早く黎翔は前に進んでしまっていた。夕鈴は追いつこうとして走る。以前は、夕鈴の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれていたのか。かと思いきや黎翔は突然立ち止まった。
「夕鈴」
「は、はい」
「空が橙色だ」
「そうですね」
 目の前に広がる空は明るい橙色だ。もうすぐ日が落ちることを示している。黎翔はいたずらを思いついたときの子どものように微笑んだ。
「君の名前は夕刻で、私は早朝だ。運命的なものを感じるな。君はこうして私の命を助けてくれたわけだし」
「…」
 夕鈴が反応できずにいると、黎翔は気まずそうに目を逸らした。少し顔が赤くなっているのが、今の発言に対してなのか、夕方の太陽のせいなのか分からなかった。
「悪かった。ただの冗談だ」
「い、いえ、そういえば、そうだなって思って。えっと、暗くなる前に戻りましょうか」
「そうだな…。夕鈴、せっかくだから、名前を呼んでくれ」
「え?えーと、李黎翔…様」
どうしても呼び捨てにするのは憚られ、敬称をつけると案の定黎翔が顔をしかめる。
「なぜ敬称をつけるんだ」
「そ、そうですよね。じゃあ黎翔さん」
「…どうも毎日呼ばれていた名にしてはしっくりこないな」
「李翔さんはどうですか?李翔さん」
「こっちのほうが聞き覚えがある気がしてきたな。まだ違和感があるが…」
「じゃあ李翔さんにしましょう。しっくりこなくても、名無しよりはマシじゃないですか」
「そうだな。確かに、ないよりは良いか」


 青慎の手紙には、王都はまだ寒くて居心地が悪いという旨があった。休暇をもらったから、自分が村へ行くと。遠回しに夕鈴が乾隴へ戻ってこないようにと誘導しているような文面だ。青慎からは王宮の他の人間についての情報は一切入ってこない。夕鈴は月に一度の買い物で、川の上流にある町へと来ていた。そこで村の人と離れて一人森の中へ入っていく。
「浩大?浩大、いる?いたら何か合図をして」
返事はない。きっと彼も黎翔を探しているはずなのだ。記憶のない黎翔に何も告げずに王都へ戻れというには、夕鈴の持っている情報は少なすぎた。他に頼れる手段がない。
「浩大、お願い」
 しばらく名前を呼びつづけてみるが、やはり目当ての人物は出てこない。浩大に限って大きな負傷をしたとは考えたくないが、分からない。何も分からない自分の立場が嫌だった。


「何か収穫はあったのか?」
「李翔さん、何勝手に薪割りしてるんですか」
「量が少なくなっていたから、必要かと思って…」
 夕鈴が怒ると、黎翔はとたんにシュンと小さくなった。褒めてもらえると思っていたのだ。
「助かりますけど、傷口開きますよ」
「もう治った」
「嘘言わない!」
「しかしなあ、何も仕事がないというのも落ち着かないよ」
 この人からこんな言葉が出るなんて、と夕鈴は絶句する。文句は言っていたけれど、結局は忙しいのが好きだったのだろうか。
「先生―!李翔さーん」
「はいはい」
 村長の長男と末娘だ。先日夕鈴が持っていったおかずのお礼にと、貴重な茶葉を持ってきてくれた。
「いつもありがとう」
 二人の子どもは斧を手にしている黎翔さんを不思議そうに見ている。
「なんだ」
黎翔が話しかけると、二人の子どもたちは驚いて家の影に隠れてしまった。
「せ、先生が李翔さんは体が弱いから働けないって…」
「それは聞き捨てならないな」
黎翔は夕鈴に不満そうな顔を向けたが、夕鈴は黙って笑って答えた。数日前まで寝込んでいたし、あまり外に出ないようにしてもらいたいと思うとこれくらいしか言い訳が思いつかなかったのだ。
「例えば君が持っているその木刀相手に、私なら右手だけで勝てるよ」
黎翔は少年の持っている木刀にちらりと視線をやった。
「嘘だ」
「嘘じゃないさ。やってみろ」


 こうして無事、剣術の師匠として仕事を得た黎翔に、夕鈴は複雑な気持ちを抱いていた。村長の家には中央の人間が全く出入りしないとは言いがたい。この警戒心の欠片もない状態の黎翔を、そんなところに出入りさせていいものだろうか。しかし黎翔という人間は、周囲の人間の言葉に一切耳をかさずに、好きなように行動してしまう人間なのだった。この人の職業が、あまりに黎翔をしがらみで雁字搦めにすることを気の毒に思っていたけれど、少し拘束されていたほうが良いのではないかと思うほどに、黎翔は自由だった。
「夕鈴、今日の夕飯は何?」
 香りにつられてきたのか、黎翔が嬉々とした表情で台所に入ってきた。その手には市で買ってきた菓子の袋がある。自分で給料を稼ぐようになると、黎翔は夕鈴に対して何かとものを買ってきて、何度か説教を受けているうちに、食べ物なら怒られないということを学習したようだった。
「今日は炒めものと小籠包です」
「おいしそうな匂いがする」
 黎翔は夕鈴の後ろから蒸し器を覗いている。今の黎翔の辞書には遠慮という言葉はないらしく、近すぎる距離が夕鈴には居心地が悪かった。このどうしようもない気持ちをぶつける先がどこにもない。
「そろそろ出来ますから、手を洗ってきてください」
「もう洗ってある」
 黎翔は勝手に蒸し器の蓋を開けると、中にある小籠包をひとつつまんで、口に入れた。
「あっつ!」
「何やってるんですか!つまみ食いしない!」
「ごめん、お腹が空いて、おいしそうだったし…」
「全然反省してないじゃないですか!」
「いや、反省はして…ゆ、夕鈴、悪かった」
黎翔があまりに動揺するので、キツく叱りすぎてしまったかと思ったのだが、原因は別のことだった。夕鈴は、自分の頬を温かい涙が伝っていくのを感じた。
懐かしい。何も変わっていない。
料理を待てなくて、そわそわ側によってきて、つまみ食いして怒られて、しなだれたその表情も、声も。こうしてなんでもないみたいに一緒にいられることが幸せすぎて、苦しい。こんなことをしている場合ではないと、その気持ちが鉛のように重たく、夕鈴の自由を奪っていくようだった。黎翔はなすすべもなくおろおろと夕鈴の前で、手を上げたり下げたりしている。
「悪かった。反省してる。もうしないよ。誓う」
「ち、違うんです、いいんです。これは、李翔さんにあげようと思ったから…」
夕鈴は一生懸命涙を拭うが、自分で止めることができない。
「気にしないでください。煙が目に入っただけ…」
「そんな分かりやすい嘘があるか…泣くな、夕鈴」
黎翔は夕鈴の肩を抱いて、そのまま自分の腕の中に収めた。力強い腕と、少し人より高い体温は、夕鈴の覚えている黎翔のままだった。


黎翔は寝台に横になり、天井を見つめていた。夕鈴の弟が使っていたというこの部屋は、主がいなくなっても物置にはならず清潔に保たれている。元より仕事が忙しくて、その弟もほとんど使っていなかったらしい。弟の話をするとき、夕鈴はとても幸せそうな顔をする。その顔を、自分もさせてみたいと思う。最近になってようやく黎翔も自分の食い扶持を自分で稼げるようになったものの、見ず知らずの人間にここまでしてくれる夕鈴という人間は不思議でならなかった。気立てもよく、可愛らしい女性であるのに、なぜこんな寂れた村で一人で暮らしているかも不思議だ。もっと知りたい、と思う反面、近づきすぎたときの夕鈴の小さな拒絶が怖くて、今一歩を踏み出せなかった。自分が何者かを示すものが、今の黎翔には小さな紙切れしかなかった。それだけが元の自分と、今の自分を繋いでいる。どこに足を付いていいのかも分からない今、夕鈴だけが黎翔の居場所だった。それを失うのは怖い。自分が何者かも分からない。真っ暗な道で、黎翔の手を引いてくれるのは夕鈴だけだ。自分の名前を呼んで、ここにいていいのだと教えてくれる。笑顔でいてほしい。喜んでくれるなら、なんでもしてあげたい。何もさせてくれないことをもどかしく思う。親切だけでここに置いてもらうのではなく、この先もずっと一緒にいたい。
「夕鈴」
呼んでも返事が来ないというのに、その音は黎翔のことを暖かく安心させてくれた。


夕鈴の朝は早い。食事の用意をして洗濯を済ませると、水を汲みに行くために川へと向かう。二人分になるのでかなりの量になるため、できるなら男の手に任せたいところだが、夕鈴は未だ黎翔を村から外れたところへ出すのは気が進まなくて、運動をしたいからと言って無理やり自分で担当している。
「ふう、重い」
「手伝ってやろうか?」
「ええ、ちょっとお願い…」
器を落とした。せっかく綺麗な上澄みをすくったのに、川底の泥が舞って水が茶色く濁る。
「よ」
くるくると回転しながら降りてきたのは、十年経っても外見になんの変化もないように見える黎翔の隠密だった。
「来るの、遅いわよ」
「ゴメンゴメン、でもオレもけっこー忙しくってさ。陛下はお妃ちゃんとのんびり新婚ライフ送ってるみたいだから、邪魔しちゃ悪いかナーと思って」
「ふ、ふざけ…」
いつまでも続けられないと思っていた。何かしなくてはと思いながら、どうしていいか分からなかった。責任を全て押し付けたいとは思っていないけれど、自分一人だけだったことが不安で仕方なくて、その重圧から開放された今ただ涙が止まらない。
「っと、泣くのは早ーって。まだオレもあんまり動けないからさ」
「今、どうなってるの?李順さんは?方淵殿と、水月さんは?宰相は、政務室の人は、大臣たちは…瑛風様は?」
 夕鈴の口から瑛風の名が出たことに、浩大は複雑な気持ちになった。
「晏流公は王宮のおっさん達に囲まれてるけど、まあ大丈夫っしょ。後の人は自分でなんとかする感じで」
「何が…」
 あったの、と尋ねようとして、夕鈴は口を閉じだ。王宮の情報を、全くの部外者である夕鈴に知る権利などない。夕鈴は少し考えて、質問を変えることにした。
「私、どうしたらいい?あの人の力になりたいの」
「どうしたい?」
 夕鈴は黙って浩大を見つめる。そして口を開く前に、浩大が会話を遮った。
「ウソウソ、また突拍子もないこと言われちゃ困るからネー。とりあえず李順サンに報告するから、もうちょっと陛下の面倒みといてよ」
「ちょっと、浩大!」
 言いたいことだけ言うと、浩大は夕鈴の言葉も聞かずに森の中へ消えていってしまった。浩大も疲労はしているようだが、元気そうでよかった。


夜中、夕鈴は肌寒い風で目を覚ました。小さな物音が聞こえた気がして、台所へ足を運ぶ。灯りもつけないで、窓のところに立っている黎翔を見つけた。
「李翔さん、どうしたんですか」
「夕鈴、起こしたか」
「いえ、ちょっと喉が乾いたので水を飲もうかと思って。李翔さんもいりますか?」
「ああ」
夕鈴は瓶から水を組むと、椀に移して黎翔に渡した。部屋を移動し、長椅子に二人で並んで掛ける。先ほどは風が冷たいと感じたのに、冷えた椅子の感覚は心地よかった。
「冷たいですね」
「昼間より冷えていて美味しい」
「ふふ、そうですね」
黎翔は水を一気に飲み干した。静まり返った家の中では、台の上に椀を置いた音が大きく響いた。夕鈴はその様子を見て、量が足りなかったのかと思い声をかける。
「もっといります?」
「いや…静かだな」
「夜ですから」
「心地いい」
黎翔はゆっくり目を瞑った。遠くから聞こえてくる風の音や、よく耳を澄ませないと聞こえないような人の動く音がかすかに耳に入ってくる。心が落ち着くこの時間がとても貴重なものに思える。隣に座る夕鈴の体温が、ゆっくりと伝わってくる。温かさに安心し、心地よかった。少し近づいて、夕鈴のほうを見る。
「…?」
夕鈴の瞳が湖のように揺れて、そこに自分の姿が写っているのが分かった。灯りを反射して橙に光る様子が綺麗だ。わけが分からず微笑んだ表情が少し陰っているように見えるのは気のせいか。
「何かあった?」
「…いいえ?」
 言う気がない、ということが分かって黎翔は小さな苛立ちを感じた。夕鈴は、黎翔と一緒にいても、どこか違うところを見ている。誰のことを考えているのか、その口から教えて欲しかった。じっと自分を見るその視線に何も意味が無いわけがないのに、そのくせ夕鈴は、黎翔のことを見ていない。
君に、そんな顔をさせているのだ誰なんだ。
「…」
黎翔は気が付くと夕鈴の頬に手を滑らせて、そのまま身を乗り出して口付けをしていた。一瞬唇が当たるだけの軽いものだが、離れたときの音が、それは幻ではなくて、現実に起こったのだと教えてくれる。夕鈴の大きな目が現実を確かめるように瞬きをしている。
「…すまないっ!」
ぼんやりとしていた頭に、一気に血液が巡って、黎翔の体は火に掛けられたように熱くなった。自分なぜそのような行動に出たのか一切説明がつかない。しかしそれがとても自然なことのように思えた。
「すまない、夕鈴、その今のは…、なんというか…」
「気にしないでください。事故ですよね。大丈夫です」
黎翔は、夕鈴が想像したより慌てていないことに驚いていた。まるで前にも同じようなことが起こったかのような冷静さだ。そして、黎翔がそれを繰り返すことも、なんとも不思議と捉えていないような。黎翔は一度も夕鈴に口付けをしたことなどないのに、まるで会ったばかりの人間にところかまわず無差別に口付けをするような扱いを取られて、正直腹が立った。今の行動は自分でも不可解ではあるけれども、夕鈴に対する気持ちは、決していい加減なものではない。
「事故なんかじゃない」
「え?」
「私は、君のことが…」
黎翔が全てを言い終える前に、夕鈴は立ち上がってその口を手で押さえつけていた。それ以上音が漏れないように。自分の行いに戸惑うのは、今度は夕鈴の番だった。気まずそうに目を逸らして、ゆっくりと手を下ろす。なんと声をかけていいのか分からなかった。
「迷惑だったか」
「……」
「君が嫌なら、ここを出て行く。私の記憶は近いうちには戻りそうにない」
「…それはっ、行くところなんてないじゃないですか」
「なんとかするさ。それに、親切でここに置いてもらっても、私が辛い。君にこの手を伸ばせないのに、生殺しにする気か?私も若くはないが、男だからな」
半分本気、半分冗談で笑いながら話す。
「構いません」
帰ってきた返事はまたも予想外で、黎翔は夕鈴の顔をまじまじと見てしまった。表情から、冗談で言っているわけではないことが分かる。黎翔はため息をついた。
「君はひどいな。気持ちは告げさせてくれないのに、それ意外なら許すのか。だれか他に心に決めた人が?」
「……」
「無言は肯定と取っていいのか?側にいてくれない男なら、いないのと同じだと思うが…その点では、私に可能性が残されているといえるかな」
黎翔は先ほどとは違って、自分の意思で夕鈴の頬に触れた。少し乾燥しているが柔らかい手触りが指に心地よい。夕鈴は体を硬直させ、一歩後ろに下がった。
「嫌がることはしないさ。せっかくだからもう少し残ろう。けれど私の気持ちに気付いたのなら、今までと同じようには過ごせないと思ってくれ。逃さない」
しっかりと夕鈴の目を捉えて宣言する。夕鈴の表情は暗くて読み取れないが、少なくとも拒絶ではなかった。
「おやすみ夕鈴」

 帰宅した黎翔から、ひどく強い酒の匂いがした。足取りもおぼつかない様子で部屋へ入ってきた様子はとても国王とは思えない。
「ちょっ…どうしたんですか」
「どうもこうも…村長が…」
「水、水飲んで」
「ゆうりん」
水を汲もうとする夕鈴の腕を抑えて、黎翔が抱きついてくる。
「気持ち悪いんですか?大丈夫ですか。すごい酔ってますね」
「ああ、酔っている。…君に」
 黎翔の顔が近づいてくる。避けなくてはと思うのに体が動かなかった。唇が重なる直前で黎翔が離れた。
「そう怯えるな…無理なことはしないと言っただろう。君に嫌われるのは嫌なんだ。おやすみ」
黎翔は夕鈴の額に唇を落とす。そのまま壁につかまりながら部屋に戻ったようだった。残された夕鈴は腰が抜けて床に座り込んだ。今の今まで目の前に溢れていた赤が夕鈴の体の自由をすっかり奪ってしまったようだった。息が出来なくて、夕鈴は自分の胸元を抑えた。なんとか深呼吸をしようと無理やりに自分の体を落ち着かせて、ぎゅっと拳を握って力を込めるとぼろぼろと涙が出てきた。
「嫌いじゃないって、言ったじゃないですか、陛下」
 
 随分飲んだように見えたが、黎翔は酒で記憶が飛ぶことはないらしく、翌日は夕鈴の機嫌を伺うかのように恐る恐る台所に顔を見せた。
「…おはよう、ゆうりん」
「おはようございます」
「怒っているか」
「何にですか」
「昨日の…飲みすぎて…」
「怒ってはいません。気持ち悪くないですか」
「ああ。少し外の空気を吸ってくる。夕鈴も一緒に行こう。今日は休みだろう」
機嫌を伺うような黎翔の様子に、夕鈴は小さくため息をついて頷いた。
「いいですよ」
黎翔は、夕鈴の歩幅でゆっくり歩いてくれるようになった。時々夕鈴の方を見て、微笑んでくれる。ずっと望んでいた。特別なことがなにもない日に、当たり前のように隣にいられる日をずっと夢見ていた。今みたいに、明日も、明後日も、ずっと続けばいいと願った。けれど、黎翔が本来居るべき場所はここではない。なんの情報も入ってこないこの村で、一生を終えていい人ではない。夕鈴の個人の気持ちで、繋ぎ止めておけるような人ではない。記憶が戻ったらなにもかも終わる。隣にいられるのだって、今だけ。そしたらまた、夕鈴は、自分はこの人の味方でいるのだと一人勝手に思うだけの日々に戻るのだ。
「夕鈴…どうして泣くんだ」
「分かりません」
「私は君の泣いた顔が苦手なんだ」
「気にしないでください。先に戻って」
「無茶を言うな」
黎翔は夕鈴の涙を拭おうと手を伸ばす。抑えきれるはずもなく袖を涙がつたっていく。
「…嫌なら拒否してくれ」
夕鈴が逃げる時間を十分取るように、ゆっくりと唇を寄せる。夕鈴は避けなかった。黎翔はそのまま目を閉じる。一瞬よりは少しだけ長い間そうして、名残惜しそうに夕鈴を開放した。夕鈴の表情は読めない。ただ手を握ると、夕鈴も握り返してくれた。家に帰る途中も、帰った後も夕鈴は涙の訳を教えてくれなかった。黎翔は、教えてくれまで寝かさない、と夕鈴のことを押し倒したが、夕鈴は返事の代わりに黎翔の背に腕を回して、ぎゅっと抱きしめただけだった。そのまま一緒に寝台に入り、いつのまにか目を閉じて、黎翔は意識を手放していた。

*


 黎翔は物音で目を覚ました。人が動く音がする。しかしそれ意外の音が何もない。この空間には、自分と、そして他に一人しかいない。妙だ。朝になれば朝餉の準備をする音や、書類を運ぶ音で騒がしいはずなのに、鳥の声さえ聞こえる気がする。体を起こすと、そこは王宮ではなかった。
「お目覚めですか」
「…李順」
「おや」
「ここはどこだ……」
黎翔はしばらく部屋の中を見渡して、ここが夕鈴の家だということが分かった。そして自分がなぜ夕鈴の今の家を知っているのか疑問に思った。
「…随分自分に都合の良い夢を見ていた…状況説明を」
「夢かどうかは、私は知りませんよ。話はありますが食事の後で構いません」
「随分つっかかってくるな」
「李翔さん、起きました?ごはん出来てますけど…」
黎翔は部屋に入ってきた夕鈴を凝視してしまった。年齢なりの顔つきにはなっているが、間違いなく夕鈴だ。しかも自分はこの夕鈴を知っている。ずき、と頭が痛くなり、うるさいくらいにたくさんの出来事が頭に流れ込んできた。昨日、夕鈴と一緒に寝台に入って、手を繋いで眠りに落ちる直前のところまで思い出した。
「ゆ、夕鈴…」
「夕鈴殿、陛下の食事が終わったら呼んでもらえますか」
李順は一人涼しい顔をして、部屋を出て行った。
「へっ、あ、はい」
夕鈴は李順が出て行った方向と、黎翔を交互に見た。
「…あの、…陛下、おはよう、ございます」
「おはよう…夕鈴」
黎翔は、どんな顔をしていいのか分からなかった。
食事の間中、黎翔も夕鈴も無言であった。食べ終えて片付けをしようと黎翔が立ち上がると、夕鈴がその食器を取って洗ってしまった。
「李順さん呼んできますから、待っていてください。私は村長のところに行ってきます」
「あ、え、待って夕鈴!」
 目も合わせずに立ち去ろうとする夕鈴の腕を掴んだ。
「なんでしょうか」
「いや…えっと、助けてくれてありがとう」
「今更ですか?当たり前のことをしただけです。私、陛下の味方だって言ったじゃないですか。忘れちゃったんですか」
「忘れてないよ」
「じゃあ、お礼なんていりません」
今、もし今も記憶がなければ、こんな泣きそうな顔をした夕鈴を、そのまま送り出したりなんかしなかった。抱きしめて、泣くなと言えたのに、やっと戻った記憶が今は邪魔だ。
「…忘れるわけないじゃないか」

 李順と黎翔は村から少しはずれた場所にいた。姿は見せないが浩大もいるらしい。
「王宮はまだ混乱状態ですよ。まあその混乱に紛れたおかげで私がここまで来られたというのもありますが…晏流公は賢いですが、器ではないとの声もありますし、まとまりきらない王宮に苛立つ声も出ているようですね」
「本人は?」
「本人?」
 李順は黎翔の答えに苦笑いするしかなかった。そんな質問がこの男の口から出たことに対する驚きと、言わなくても分かるだろうという両方の意味がある。
「周宰相は?」
「連絡は取れていますよ。準備は進めてくれていると思いますが」
「なら王都へ着く頃には終わっているな。戻るぞ」
 話は終わり、というように黎翔は村のほうへと足を向けた。
「どうした?」
「いいえ」
「私に王座に戻って欲しくないなら、今ここで刺すしかないぞ」
「まさか、そんなことは致しませんよ」
嬉しくて仕方ないのだから。
浩大からの報告を聞いたときは、黎翔がこのまま王位を退いて、ただの村人として一生を終えるようなことがまさかとは思うがあり得るのかと冷や汗をかいたところだった。この人は国王だ。君主として死んで欲しいなんて、仕える人間の我儘でしかないが、そう願わずにはいられない。李順の前を歩く姿は、国王の背中だった。

黎翔は王都に戻る前に、最初に夕鈴と再開した川沿いを歩いた。水に流されて冷えきった体で、なんとか意識を戻して岸へと上がったその場所も、何事もなかったかのように、澄んだ水が流れている。
後ろをついてきた夕鈴は、黎翔に合わせて立ち止まった。
「夕鈴」
「はい、陛下」
 偽名ではあったけれど、名前で呼んでくれていた今までと、今の距離はあまりに遠い。
「君はたくさん嘘をついたな」
「そうでしたか」
「私を知らないと言ったし、名前も教えてくれなかった」
「……」
「もう呼んではくれないか」
夕鈴は黙って首を横に振る。その反応は予想した通りで、黎翔は微笑んだ。こうして夕鈴が自分から少しだけ離れてくれる距離を、居心地よく思っていたのだ。あの頃は。
「私が国王でなかったら、頷いてくれたか」
「…分かりません。でも、私は王宮にいる貴方を見て、味方でいたいと思いました」
 夕鈴は、黎翔に王宮に戻るべきだと告げている。黎翔が、夕鈴の本心を聞けることはない。嘘つきはお互い様で、それを今も昔も変わらない。黎翔は夕鈴を抱きしめた。
「夕鈴、君は私を嘘つきと言っていたけれど、あの時も、記憶のなかったときも、私が君に贈った言葉に、嘘偽りはない。一緒に過ごせて幸せだった」
朝起きて夕鈴の声で起き、朝食を一緒に食べる。仕事から戻ったら家から食欲をそそる香りが漂ってきて、今日の出来事を報告しながら温かい夕食を口にする。他愛もない話をする。生活を共有する。多分、あのまま次の日と、その次の日と、また来年も、同じことで喜び、同じことで不安を感じ、いつか消え去ることなど片時も想像せずに毎日を過ごすことが可能だった。それを幸せ以外になんと呼ぶのか黎翔は知らない。
「またね、夕鈴」
迎えの車に乗って去っていく黎翔を、夕鈴は黙って見守っていた。またね、だなんて前は未来の約束などしなかったのに。そんなことを黎翔が口走ったことが、ここ数日の出来事は夢ではなくて、現実に怒り、そして黎翔の価値観をどこかで変えたのだと実感した。

青慎が懐かしい村に戻ったとき、家は暗いままだった。瑛風を王都に残したままでいることに不安がないわけではないが、彼は思ったよりもずっと意思も固く、強い。行動を共にするようになってしばらくするが、最初に顔を合わせたときの少し自信がなさそうな表情とは裏腹に、瑛風は本当に頑固なのだ。黎翔を違って角が立つ物言いは避ける上に、慎重すぎるくらいに用意周到なため目立った敵は作らないものの、一度決めたことを覆さないところは厄介とさえ言える。今回の青慎の休暇も、青慎の僅かな表情の変化を読み取って、瑛風が勝手に手配したのだった。この大変な状況で一人王都に置いていけるわけがないと言ったのに、青慎のためではなく、自分のために行けと言われては反論ができなかった。青慎は知らなかったが、瑛風は夕鈴と会ったことがあるらしく、青慎の顔を見て、一言二言会話をした後に姉がいるだろうと言い当てられたときには本当に驚いた。夕鈴の手紙の内容も気がかりだった。何かの手段を使って、夕鈴は黎翔が王宮にいないという情報と、謀反が起こったことを知ったのだ。猪突猛進なところがある夕鈴にしては手紙の書き方は遠回しで、すぐに王宮に飛び込んでこないところは姉らしくないとは思ったけれど、それは月日が彼女を変えたのだろう。
夕鈴から、はっきりと王宮での仕事の話を聞いたことはない。夕鈴の帰省の際に突然現れて、知らぬ前にいなくなっていたあの青年のことも、深い推測もせずにただ、言われることを鵜呑みにしていた。もちろん二人が否定していた関係については、なにか事情があって言えないだけでそういうものだと思っていてが、その事情について考えるようなことがなかったのだ。夕鈴のことは夕鈴が自分で決めるものだと思っていたというのもあったが、あの頃は登用試験に合格することだけで必死すぎて、夕鈴の表情を読み切れていなかった。突然王宮から戻ってきたときも、またその後そこへ行くとも告げずに、しばらく戻らないと言われたときも、青慎は黙って、夕鈴を送り出すしかなかった。
「姉さん?」
無人だ。まさか自分の到着を待たずにどこかへ出てしまったのだろうか。今の状況で、一人で王都になんて戻っていたら何が起こるか分からない。
「姉さん!」
「…青慎?おかえり」
夕鈴の様子に特に変わったところはなく、青慎は安堵で深く息を吐いた。
「よかった」
「どうしたの。久しぶりの休暇じゃない。ゆっくりしていってね」
「ありがとう」
「中どうぞ」
青慎は夕鈴に案内されるがまま、家の中に入った。
「荷物部屋に置いてきていい?」
「どうぞ」
 結局仕事場に泊まりこむような形が多く、ほどんど帰ってくることがなかった部屋だ。青慎が王都に戻った時のまま、特に家具は追加も処分もしていないようで、掃除が行き届いていた。
「姉さん?」
「どうしたの」
「誰か泊まったの」
ずっと無人だったにしては、違和感があった。寝具は洗ったばかりで、机には青慎がつけたものではない墨の後がついていた。少し家具がずれて、床は日光により劣化した部分と、真新しい色の差があった。
「…うん。勝手にごめんなさいね」
「この村、宿がないもんね」
「そうなの」
夕鈴は食事を器に装って、卓の上に置いた。作りたての料理から湯気があがっている。
この家に、黎翔が泊まっていたのだろう。なぜ今更夕鈴のところに。意図したものではなかったのだろうか。青慎は食事をしながら、片手で数えるほどしか、しかも遠くからしか見たことのない黎翔のことを思い出していた。最初に声を聞いた時は、どこかで聞いたことがある声だと思った。顔を見て、よく似ているなと思った。その次に出会って確信した。下町での夕鈴の不可解な言動を思い出して、全てを納得した気でいた。このことは青慎の心の中に留めておいて、一生口誰にも公言しないと決めた。少しだけ決心が揺らいだのは、廊下から中庭を眺める黎翔の姿を見た時だった。目を閉じて、なにかを懐かしむように外を眺める国王が、傷つけるつもりで夕鈴と一緒にいたわけではないと、そう感じ何かをしたいと衝動で黎翔に話しかけようと足を一歩踏み出して、誰にも頼まれていないその行動を起こせずに今もずっと、黙っている。
姉のことを知っている人間が、あの王宮に何人いるのだろう。どんな風に過ごしていたのかは、欠片のように落ちてくる情報を拾ってくるしかない。彼らの安否を教えてあげたほうがいいのだろうか。夕鈴の性格を考えると、気になって仕方がないだろう。
「青慎、顔色が悪いけど、どうしたの」
「え?そうかな。疲れているのかも」
「忙しいのね」
「ちょっと。でもすぐ落ち着くと思うよ」
多分、と付け足しそうになって黙った。瑛風はあまり心配している様子ではなかったが、王宮が黎翔を追い出した後でも、軍部を中心として黎翔を連れ戻そうと画策する一派と、今のうちの瑛風を君主として固めてしまおうとする一派で完全に分かれている不安定な状態であったし、黎翔を庇った数人は投獄されたか、自宅で軟禁状態と聞いている。瑛風が手荒になりすぎないようにと指示を出そうとしているが、上から見える情報というのは非常に限られているものだ。こんな時だからこそ側に仕えたいのに。
「青慎」
「え?」
「ぼんやりしてる」
「ごめん。今日はもう寝ようかな」
「それがいいわ。後これ、預かり物なの」
夕鈴が手にしているのは、手紙のようだった。

青慎は未だ手紙の内容を信じられないまま、蓉州に港に来ていた。本当にここに来るのだろうか。
「青慎」
名前を呼ばれて、青慎は振り向いた。馬の背から背の低い青年が降りてくる。
「なんて顔をしているの」
「晏流公、王都にいるのではなかったのですか」
愉快そうな顔をして馬を引いてくる様子が黎翔にそっくりだ。武術は兄の黎翔ほど得意ではないはずなのに、邪魔だからといって必要以上に護衛を付けないところも、真似しなくていいのに似ている。
「克右さんまで」
間違いなく黎翔派の武人のはずであったが、なぜ瑛風と一緒にいるのか。
「俺は役を仕っただけだからなあ」
突然言い渡されて来たのはこの男も変わらないようだった。ということはこの手紙の内容は、嘘ではないのだ。克右は瑛風の分の荷物まで抱えているのか、足元が行李で埋まっている。
「今この状況で、国を出るなんて…」
信じられない、と青慎が絶句する。
「国王陛下の勅令だから。僕が戻ってきたら、その時こそ兄上は引退だよ」
「それで大臣たちは納得したんですか」
その質問には克右が答えた。
「してないから大変なのさ。あの方が」
「私はずっと蓉州にいたのだから、少し外を見るのは当たり前だと思わないかい。叔母上には連絡してあるから大丈夫だよ。青慎、一緒に行こう」
夕鈴には何も告げていない。岩圭にも連絡をしていない。準備もしていない。状況がよく飲み込めていない。青慎の頭の中にやらなくてはならないことが次々浮かんで、今すぐ国を離れるなんて狂気の沙汰だから後一月は準備をしよう、この早急で無鉄砲な動きは貴方らしくない、と諭そうとしたのにできなかった。
「はい!」


黎翔は、今回の騒動に関わった人間の名前を眺めていた。黎翔が地方の軍を引き連れて王都に戻った時、当の瑛風はおらず、その状況に戸惑い慌てふためく人間を抑えるのにそれほど時間はかからなかった。王宮が一枚岩であったことなどなかったし、これからもない。小さな出来事が少し動くだけで状況はめまぐるしく変化して、黎翔は、その状況をどこか楽しんでいるのだ。王が誰になろうと、本当に邪魔になるような人間は、残り続けるのだ。
「これでは何も変わらないではないか、李順」
「そうは言いましてもね」
「陛下!」
柳方淵は、王宮に乗り込んできた人間に少々荒く扱われたようだが、休養もそこそこに戻ってきた。次に同じことは起こさせないと前よりも武術に励んでいるようだが、彼の性格的に息抜きには付き合ってくれないだろう、と克右を送り出してしまったことを少し後悔する。克右も周囲に気を遣いすぎるところと、その能力のせいで、気苦労の絶えない人間だ。少し自由になって羽を伸ばしたら、また戻ってきてほしいと言った。瑛風と軍部の相性は良いとは思えないので、克右を付けてやれば少しは緩和されるだろう。未だ彼に憬れている人間も残っているし、頭も悪くない。今後は攻めこむことはなくなっていくだろう。守るには守るに適した将が必要になってくる。

「連日の会議でお疲れの様子でございますね」
「……くだらぬ話はいいから報告を続けろ」
「承知いたしました。では蒼玉国との新たな取引の件ですが…」
氾家は今回どちらともつかない立場を貫き通したようだった。柳家が瑛風についたものの同じ側を避けるという理由だけでは選択しないだろうし、何か彼らなりに考えがあってのことかと思うが、分からない。史晴が自分と同じで、気の向くままに楽しそうなほうを選ぶところがあるのは分かってきたが、この様子だと黎翔は、今回は氾家当主を満足させる行動をしたようだった。話が終わって史晴が立ち上がる。窓の外に目を向け、風で舞う花びらを眩しそうに目を細めて眺めている。
「―――春の、花吹雪を見ていると、あの宴を思い出します」
「……そうだな」

史晴は回廊を進みながら、春の温かい風を楽しんでいた。今日のあの黎翔の発言を、どう捉えたらいいだろう。黎翔にとっては不意打ちであっただろう謀反で、王宮を追われて逃げたときいたときにはこれまでかと思ったが、黎翔は初めて玉座に座った時のように、軍を率いて王都に戻ってきたときは、嬉しかった。瑛風も育てればおもしろいと思うのだが、もう少し黎翔に付き合ってほしいと思っていたところなのだ。誰かに追い出されるように席を外れるようではおもしろくない。心酔している軍部を使って力づくでやり通すのかと思いきや、それは年齢のなせる技なのか今回はほとんど血は流れなかったらしい。予め弟の瑛風と連絡を取っていたことが大きかったか。せっかく長く時間をかけて準備をしていたのに、今一歩足りない計画だった。それぞれの動機が一致しないから仕方のない話か。黎翔に味方する人間は、黎翔のためにという一点においてだけは、なぜだか一致した働きを見せるようだから。風に乗って、柔らかな二胡の音色が聞こえてくる。大した怪我もしなかったようだが、反乱のあった日から再び引きこもりがちだった長男に、良い知らせが届けられそうだった。




再び、山が雪に覆われて、その雪が溶け、透き通った水が太陽を反射して、宝石のように輝く季節になった。黎翔は懐かしい空気を吸いながら、川沿いを歩いていた。所々雪が残っているが、今日は陽が温かいから、よく溶けるだろう。川の側にしゃがみこんで、器に水をいっぱいにしている姿を見つける。黎翔の手には、赤い実がたくさんつまった袋が握られている。
「夕鈴」
声に反応して、夕鈴の肩が跳ねるように反応した。音を反芻して確かめるようにゆっくりと立ち上がり、夕鈴はその瞳に黎翔の姿を写した。
「陛下!」
「夕鈴」
どんな反応をされるか分からなかった。笑顔だった。姿を見て、花がほころぶように目を細めて、笑ってくれた。
「春の、宴をもう一度開こうと思ってるんだ」
黎翔は夕鈴に歩み寄った。
「一緒に、来て欲しい」
緊張している。自分の手が震えているのが分かった。震えを誤魔化すように夕鈴の手を握る。
「君にとっては、この村にいることが一番幸せなのかもしれない。長い間離れたことで、君にとって、私がいない人生が当たり前になってしまったかもしれない。この先、私といることで、辛い思いをさせるかもしれない」
黎翔は深く息を吸った。迷いはない。
「…それでも、私を選んで欲しい。君を連れ去ってでも側にいて欲しい。愛してる」
これを、十年前に口にできなかったのは、自分が未熟だったからだ。気持ちは変わっていないのに、それだけの覚悟がなかった。黎翔はじっと夕鈴の瞳を見つめる。十代だった幼い少女はもういない。落ち着いた茶色い瞳が、黎翔の緊張した表情を写している。
「陛下、我儘っぷりに拍車がかかってますね」
一言で返事をもらえないことに、安堵と苛立ちを同時に覚えて、ゆっくり返事をする。
「そうかな。少し落ち着いたと思うのだけど」
「……」
夕鈴は質問に対する答えを口にせず、無言のまま黎翔の肩に体を預けた。黎翔はその体抱きしめていいのか少し迷って、ゆっくりと腕を回す。
「…無言は肯定ってことだよね?」
「いいえ」
「…、夕鈴」
説得の言葉はなにかないかと頭を回転させるが、言葉が出てこない。これは別れの挨拶なんて、まさかそんな殺生な。
「まだお返事してません、黎翔様」
夕鈴が顔を上げる。ふにゃ、と崩れた幸せそうな泣き笑いがもう立派に返事をしているのだけれど、言葉でだって聞かせてほしい。黎翔はその身長差を埋めるように少し屈んだ。
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順子様
こんにちは。はじめまして。ご返答遅くなりまして申し訳ありません。
ご指摘のとおり、ほぼ停止しているサイトですが、足をはこんでいただたけてとても嬉しいです。ありがとうございます。

この作品は、他少女漫画作品よりも二次の世界が盛り上がっていて、検索してみるとびっくりしますよね。
おかげて自分の好みの陛下と夕鈴を探せるわけですが(笑)順子様の好みのものが1つでもこのサイトにございましたら嬉しいです。
私が書くと夕鈴がツンデレで意地っ張りになる傾向があるので、もともイチャベタラブを書けないのですが、さらに今は原作が最強にイチャベタラブなので、すっかり書く側からは遠のいてしまいます(笑)原作読んでいると布団の上をごろごろ転がりたくなります。

順子様も、本誌の夫婦で暖をとりつつ、お体にお気をつけてお過ごしください。コメントありがとうございました。
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順子 様
こんばんは。またもお越しくださりありがとうございます。わかりづらい作りで申し訳ないです。拍手専用ページを作るほど活発にうごいているサイトではないので、このままゆるゆるしておりますが、今後共何卒よろしくお願い致します。

ハロウィンの季節はお店の装飾も楽しくてわくわくしますよね!
現パロは身分差がないので、夕鈴も少し余裕があって、甘えたり、天然なところや可愛いところがより発揮されるのではないかと思ってます。陛下(私も現パロでも陛下呼びにしちゃいます)は付き合って何年目かによると思いますがいくじなしで鼻をつっついて終わりじゃないでしょうか(笑)
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順子様
こんばんは。ご返答ありがとうございます。更新したいなー…と1週間に1回くらい思うのですけど、どうも本誌を読んでると自分で書く必要性を全く感じなくて満たされてしまっている感じです!!幸せです!!!!!
今月もご夫妻は通常運転でラブラブでしたね。陛下のイケメンっぷりも夕鈴の可愛さも留まることをしらずに、ひたすらニヤニヤするしかありません。王女は何しにきたのかは来月のお楽しみですが、あの様子だとどう頑張ってもたぶらかせそうになくてやりがいがないですね(笑)寒くなるかと思いきや、今日は少し暑い気がしました。順子様もご体調にお気をつけてお過ごしください。
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Re: タイトルなし
うさきさん、コメントありがとうございます。もったいないお言葉ありがとうございます。またなにか更新できればいいなと思います。

私も記憶喪失ネタ大好きです(笑)夕鈴の記憶喪失は考えたことなかったですが・・・、1部と2部で全然違う話になりそうですね。
紅珠が書いている小説も、本気で考えたいなと思ったのですが、結構すでに皆さんが投下してくれているので満足してしまって結局書きませんでした。青年と少女がどうなったのか気になりますね。。。
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